日本美術界において最も成功した芸術家の一人である会田誠であるが、主に性を題材とした作品で知られる彼を毛嫌いする人は少なくない。
今回は、彼の作品の中でも一際インパクトの強い「犬(雪月花のうち“月”)」において女の子の手足が切断されたことに隠された意味や、彼の作品の現代アートとしての価値について語っていく。
「犬」と現代日本画への批判
会田誠は、1989年に「犬」シリーズの一つである「犬(雪月花のうち“月”)」を制作した。当時、彼はまだ東京藝術大学に在学中の学生だった。
縦長の画面には、四肢を切断された一人の全裸の少女が向かって右側を向いて座っており、上の方に顔を向けている。切断された四肢の断面は包帯でぐるぐる巻きにされており断面は見られないが、それでもかなり痛々しさが伝わる。
よく見ると少女の首には首輪が付けられており、そこから繋がった一本の鎖が太ももの内側へと垂れている。画面自体は全体的に青く描かれており、少女の後ろには大きな月のようなものが描かれている。

高橋コレクション蔵、東京 Courtesy: Mizuma Art Gallery
今でこそ、村上隆といったアーティストがオタクカルチャーを題材とした作風で世界的に高い評価を受けていることもあり、世間的にそういった文化に対して多少の理解はあるが、当時はまだオタクカルチャーに対して「悪」であるという見方も強かったことから、制作当時は今以上に「犬」に対する拒絶感が強かったのであろう。
なぜ会田誠はこのようなインパクトの強い日本画を描いたのであろうか。会田誠のこの作品には、現代日本画に対する批判が隠されていると見える。
会田誠自身が「犬」について語った「性と芸術」(幻冬舎文庫、2022年)という本の“はじめに”の部分で、彼は「作品を成立させている〈意味的な構造〉」について次のように語っている(1)。
なにせデビュー前の学生時代の作品である。人生の助走期間に作ったプロトタイプと言ってもいい。だからそのコンセプトというか、作品を成立させている〈意味的な構造〉はすごく単純だ。
「低俗な変態的画題を、風雅な日本画調で描こうとしました」
おそらくこの一言で済む、ささやかなワン・アイデである。自分の真情を吐露した素直な絵ではなく、作為的な〈仕掛け〉があるとしても、それはとてもシンプルなものだ。(2)
日本画は、元来「風雅」な描き方を売りにしてきた。そしてそれは、アートの価値観や存在意義が刻々と変化し続けた結果として生まれた現代アートが主流となっている現在においても変わらない。
会田誠は、この堅固な価値観を崩さずにきた日本画の描き方で、本来日本画において低俗とみなされるような画題をあえて描くことにより、日本画の新たな形を提唱して「日本画は刷新されるべきである」「日本画は時代遅れである」ということを暗に主張しているように感じられる。
【考察1】「犬」への抗議と二つの側面
2012年から森美術館で開催された「会田誠展:天才でごめんなさい」において、「犬」シリーズの作品が展示された。
このとき、美術館側に対してとある団体から抗議が寄せられたのだという。少女のヌードを題材とした「犬」シリーズには性暴力性が含まれるとの主張であった。
では、この作品における「性暴力」が果たして誰に向いているものなのかを考えたい。ここで私は、二つの可能性を考える。
一つ目の可能性は、この少女が「女性」そのものを象徴しているという可能性である。この場合、作中での少女がいたぶられているような描写が女性全員に対して向けられたものとなるため、確かにこの作品が女性に対する性暴力性をはらんでいると考えることが出来る。

二つ目の可能性は、この少女が会田誠の生み出した「架空のキャラクター」にすぎないという可能性である。彼がこの作品を通して社会に対して何らかの主張を行っているとして、作中の少女はあくまで作品のコンセプトを成立させるためのレイヤーであり、女性という性別に対しての侮辱をはらんでいないとも考えることができる。
またこの場合、少女が架空のキャラクターであることから、当作品から特定の人物に対する暴力性を見出せないため、果たしてこれを性暴力とみなすことができるのかについての疑問の余地が残る。
しかしながら、この少女が実在する人物でないにせよある種の児童ポルノの範疇に含まれるという見方もあり、この作品が未成年の子供たちに与える影響は計り知れない。
いずれにせよ、「犬」は見る者によっては「偉大な現代アート」とも「性暴力」とも捉えることができる、日本美術史に残る問題作であることに変わりないだろう。
【考察2】「犬」に現代アートとしての価値はあるのか?
さて、ここまで「犬」に対する見方について触れてきたが、そもそもこの作品は現代アートとしての価値があるのか、またなぜそこまでの価値が見いだされているのかを疑問に思う方は少なくないはずである。
この作品には、現代アートとしての価値が見出されるべき理由となる点が二つある。
まず一つ目は、新たな表現方法の提唱である。
会田誠は、オタクカルチャーに精通するような「低俗」な画題を「風雅」とされる日本画の描き方で描いた。これだけでも鑑賞者にとってかなりインパクトの強い作品であるが、そもそも日本画というジャンルにこのような画題を持ち込むこと自体が「画期的」である。

国立国際美術館蔵、大阪 Courtesy: Mizuma Art Gallery 撮影:福永一夫
先述した通り、風雅な絵画として価値を確立してきた日本画に対して「低俗」なテーマを持ち込むことで、まさに日本画という絵画に新たな表現方法を提唱したのである。
二つ目は、社会に対する問題提起である。
これについては次に詳しく語るのだが、端的にいうとこの作品は社会的に大きな意味を持つべき作品であり、この作品が社会の現状について考える端緒となっている。この作品が視覚的に大きなインパクトを持っていることはもちろんだが、そこに内在する現代社会に対しての批判精神が、この作品の価値を高める要因となっていると解釈する。
以上の点から、会田誠の「犬」が価値ある現代アートとして評価されていることは妥当であると考える。
興味深い事実:同じく日本を代表する現代美術家である村上隆の「My Lonesome Cowboy」(1998年) 「犬」と同様に刺激的な作品 この作品の現代アートとしての価値は何だろうか
【考察3】「手足切断」が示す現代社会の問題
先ほど、「犬」が現代アートとして高く評価されるべき要因の一つに「社会に対する問題提起」があると述べた。これについて詳しく解説していく。
私がこの作品から感じた問題提起とは現代社会そのものに対してのものである。
通例、一見何を目的として描かれているのか分からない芸術作品には作者の隠された意図がある。彼らは、社会の問題点を芸術作品にすりかえて表現することで、それに対する批判を鑑賞者に訴えかけている。そして、会田誠の「犬」も例外ではない。
まず、四肢を切断された少女であるが、これは現代社会の若者を象徴していると推測する。少女が四肢を切断されて首輪の鎖につながれていることは、現代社会に生きる若者がある種の「しがらみ」に囚われていることを表現していると捉えることができるのだ。

高橋コレクション蔵、東京 Courtesy: Mizuma Art Gallery
現代の若者は様々な生きづらさを感じている。理想と現実の乖離から生じる絶望、親の期待する自分と本当になりたい自分を天秤にかけたときに生じる葛藤、他人からの評価の重圧など、彼らが何かしらの不安に囚われていることは確かである。
これらは、未来に向かって自由に羽ばたこうとする彼らを必死に阻止する「鎖」であり、まさに彼らの置かれた状況は四肢を切断され鎖につながれているのと一体何が違おうか。
そんな状況下に置かれてもなお、少女は笑顔を作りまるで「犬」のように餌に食いつこうとしている。様々なしがらみに囚われてもなお、懸命に生きようと努力する現代の若者のように。
ここでもう一度、改めてこの作品を見つめてみてほしい。今度は、この作品からこうした現代社会に対しての批判精神を読み取ることができるのではないだろうか。
興味深い事実:同じく日本を代表する現代美術家である村上隆の「My Lonesome Cowboy」(1998年) 「犬」と同様に刺激的な作品 この作品に込められた批判精神とは何だろうか
終わりに-会田誠という画家-
会田誠は、ヌードを扱う少々刺激的な作風からファンを選ぶ芸術家ではあるが、彼の作品からは視覚的インパクトだけでなく現代社会に対する隠されたメッセージを読み取ることもできるであろう。
また、今回取り上げたような作品だけでなく彼は実に様々な業界についての作品を手掛けている。そういった他の作品にも目を向けてみると、会田誠のまた一味違った側面が発見できるのではないだろうか。
参考文献
(1)(2) 会田誠「性と芸術」幻冬舎文庫, 2022年
コメント
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