ダリは、なぜ溶けた時計を描いた?

a_beautiful_painting_3 絵画の物語

美しい絵 #3 サルバドール・ダリ

現実

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Salvador Dalí. The Persistence of Memory. 1931 © 2025 The Museum of Modern Art URL: https://www.moma.org/

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《時計が実際に溶けていたとしたら?》

サルバドール・ダリという画家は、恐らく歴史上最も誤解された画家である。

大抵、人々は彼の独創性を賞賛する。その類稀なる想像力に対して、彼らは驚嘆する。

しかし、このことについて今一度考えるべきではないだろうか。ダリの描いた世界は、現実なのか、それともそうではないのか。

溶けた時計、チーズのような浮遊物、巨大な象…これらの奇妙な存在を現実として受け入れることは難しいのかもしれない。

しかし、ダリが幼い頃に経験してきた数々の受け入れがたい心的外傷トラウマと、キャンバスに完璧に作り上げられた彼の世界を照らし合わせるとき、ダリが見た本当の世界に対して少しばかり手を差し伸べることができる。

重要なのは、先入観を捨て去ることだ。自分の築き上げた常識は、他者にはまったく当てにならないことだってあるのだ。

ここで言っておこう。ダリは、彼にとっての現実を描いたのだ、と。

“溶けた時計、チーズのような浮遊物、巨大な象…それらは、ダリの目に確かに映っていたのだ…”

《現実とは何か?私たちは、現実の形を知っているのか?》

私たちは、一体どのような基準でサルバドール・ダリを超現実主義者シュルレアリストに分類したのだろうか?

我々にとって、現実とは非常に曖昧なものである。我々は、現実を未だ明確に定義付けることができていない。

それでは、我々は果たして現実と超現実を明瞭な基準で区別できているといえるのだろうか?

私たちは現実を明確に定義づけることはできない。しかし、私たちは生きる上で、抽象的ながら現実という概念にある種の説明を与えることができる。

例えば、そこに存在している物事や状態のことを現実とすることができる。

目の前に机がある。この机は、実際に私たちの手で触れることができる。鼻を近づけると、木の匂いを嗅ぐことができる。手でこすると、さらさらとした音を聞くことができる。舌で舐めてみると、何らかの味がするだろう。

そして何より、私たちの目でその存在を認知することができる。したがってこの机は現実だ。

このように、私たちは私たち自身の五感を基にして、それが現実であるのか、そうでないのかを判断することができる。

あるいは、こういう考え方はどうだろうか。現実とは、信念だ。

目の前に机がある。確かに、私たちは五感によってその存在を認知することができる。しかし、私たちはその机を信じていない・・・・・・

私たちは、その机を信頼に足る存在として捉えていない。だから、その机は現実ではない。

一方で、その机の上に一つの林檎が置かれているとする。そして勿論、私たちの五感はその林檎を認知している。加えて、私たちはその林檎を信じている。

私たちは、その林檎が信頼に足る存在として捉えている。したがって、その林檎は現実である。

机が現実でなくとも、その上に置かれた林檎は現実である。これは一見不可能に見えて、実は可能なことである。

何故なら、現実とは信念であるからだ。現実とは信念であると、私たちが決定した場合においては、だ。私たちがそれを信じるかどうかが、それが現実か否かを決定するのだ。

もしそれを否定するのであれば、それは現実の定義が人それぞれで異なるということの主張に過ぎない。

たとえ、それが他の人物にとって、ましてや他のすべての人々にとって現実であったとしても、そのことが他者の現実の定義を却下することができるということを意味しない。

現実とは、一見客観的な存在に感じられるが、実のところは主観的で、観念的な存在なのである。

《現実と超現実、あるいは夢

それなのに、どうして私たちは、あたかもダリが現実を見ていない・・・・・・・・という風に決めつけてしまうことができるだろうか?

ダリ自身が、己の作風を超現実主義シュルレアリスムと名付けた。しかし、当時の彼が思い描いていた現実とは、一体どのようなものであったのだろうか。

彼は、本当に超現実を描くことができていたのだろうか?

現実と超現実の境界はどこにあるのか。

超現実と非現実は全くの別物だ。何故なら、超現実はあくまでも現実の一面に過ぎないのに対し、非現実は現実ではないことを意味するからだ。

超現実主義者は、我々に新たな現実を提供した。

我々が夢に落ちる際の、深い夢の海に沈んでいく瞬間の、あの夢との現実とも言い難い瞬間。

夢と現実が溶け合い、境界が崩壊する、まどろみのような感覚。

その刹那に、ダリは希望を見出した。

夢や妄想といった無意識の領域に広がる内面世界と、意識の領域に人がる現実の融合。ダリは、そこに新たな現実の形を捉えた。

しかし、この二者の融合は、とても曖昧だ。そもそも夢や妄想、現実といった類のものが曖昧なのだから、それらの融合となると更に曖昧になる。

ダリは、果たして本当に現実を理解できていたのだろうか。無意識と現実の融合が一体何を意味するのかを、彼が自分自身でも理解できていなかった可能性は十分にあるだろう。

《ダリの過去、心的外傷トラウマ、悲劇、そして変化》

ダリの人生はまさに恐怖に支配されていた。彼は、幼い頃に幾つもの悲劇を経験した。

悲劇と表現したのには二つの理由がある。一つ目は、それらの出来事がダリの過失によって起きたものではなく、避けることのできない、ある種の運命的なものであったからだ。

そして二つ目は、それら悲劇のすべてが、ダリの幼少期に起きたからだ。自我が確立していない幼少期の恐怖体験は、自我が確立してからも生涯にわたってその者の精神を蝕み続ける。

ダリは、これらの悲劇によって、以後の人生を奇才というレッテルを貼られながら生きることを運命付けられた。

悲劇の一つ目。それは性への屈折だ。

ダリの父親は厳格であったという。父親は、ダリの芸術への傾倒を理解しなかった。対して母親は、ダリに対して理解を示していた。問題は父親だった。

息子への歪んだ教育か、あるいは単なる悪戯か。ダリの父親は、幼きダリに、梅毒に侵された女性器の写真を大量に見せつけた。

当時のダリにとって、それはどれ程の衝撃だったのだろうか。ある日突然、彼は耐えがたき禍々しい現実を突きつけられた。

生殖に対して、女性に対してある種の神聖性を感じていたであろう少年にとって、それは余りにも残酷で、奇怪で、醜怪で、不気味であったに違いない。

何よりも、それが自分の母親という愛する存在の身体の一部分であるという事実が重大だった。

もしそれが、SF映画に登場するエイリアンの一部分であったとしたら、それ程までの衝撃にはなっていなかったのではなかろうか。

恐ろしいそれが、自分の周りに溢れている存在、自分が愛する存在の一部分であったことは、ダリ少年に深刻な心的外傷トラウマをもたらした。

そして勿論、このおぞましい経験は、以後のダリに性に対して、女性に対しての屈折した恐怖心を抱かせ続けるには十分すぎる出来事だったのだ。

悲劇の二つ目。それは死の実感だ。

ある日、ダリ少年は瀕死の蝙蝠こうもりを見つけた。その蝙蝠には、無数の蟻が蠢いていた。

そして蟻たちは、その蝙蝠を貪り食っていた。

恐らく、当時のダリにはその光景は単なる虫の捕食活動には見えなかった。それは、何かとてもおぞましいもので、彼の日常の平穏を揺るがすと感じられる程の出来事であったに違いない。

その光景は、当時の彼が見てならない光景だったのだ。死というものについて理解することは、途方もない時間を要する。

何十年と生きている私たちでさえ、未だ死を完全に理解し、受容しているとは言い難い。それ程までに、死は我々にとって圧倒的なものであり、我々の理性の範疇に及ばない存在なのだ。

そしてダリ少年は、かなり悪い形で死というものを体験する羽目になった。それは、理性的に死を理解するというよりも、理性という防御を超えて精神に死をはらんだ鋭い矢が直接的に突き刺さるような体験であったのだろう。

ダリは、この経験が原因となり、死に対して強烈な嫌悪感を抱くようになった。彼は、生ある者の側に常に纏わりつく死を、恐れた。

ここでの最も恐ろしいことは、ダリはダリ自身が実際に死を経験するまで、死への恐怖から逃れることができないという死の絶対性にある。

ダリは、生きている内は絶え間なく、死という狭間から伸びてくる無数の手を振りほどき、逃げ続けなければいけなかったのだ。

悲劇の三つ目。それはアイデンティティの喪失だ。

実は、サルバドールという名はダリの名前ではない。それは、彼の実の兄の名だ。

彼の兄は、サルバドール・ダリといった。兄サルバドールは、ダリが誕生する約9か月前に亡くなっている。

そして、両親の間に二人目の子供が生まれた。彼らは、二人目の我が子を兄と同じ名であるサルバドールと名付けた。

両親は、ダリを兄サルバドールの生まれ変わりとして考えていたのである。両親の部屋には、兄の写真が飾られていた。

ダリは、サルバドール・ダリでありながらも本当のサルバドール・ダリではなかった。ダリは、兄の代わりに過ぎなかったのだ。

ダリは、幼い頃から両親の部屋に飾られた亡き兄の写真と毎朝顔を合わせた。その写真は、亡き兄を悼むために飾られていたのではない。その写真が、彼らの信じる生きた我が子の姿を写したものであったからそれが飾られていたのである。

両親はダリを愛していなかった。彼らが愛していたのは、ダリの兄だったのだ。

ダリは、両親に対して根強いコンプレックスを抱えることとなった。そして生涯、自分が一体何者なのかについての問いに苛まれることとなったのである。

これらの悲劇は、ダリにとって逃れることのできない呪いと化した。そして恐らく、この悲劇こそが、彼が超現実という新境地を開拓するに至った最大の要因となる。

心的外傷トラウマの攻撃、現実リアルの発現》

ダリの絵画における最大の特徴は二つだ。先ず一つ目は、構築された世界が非常に精緻であるということ。そして二つ目は、描かれた世界が極めて個人的なものであるということだ。

ダリは、意図的に・・・・無意識と現実を織り交ぜていた。彼には、彼の描く世界の内のどこまでが無意識で、どどこまでが現実なのかについての分別がついていたはずだ。

だが、果たしてそれは本当だろうか。

現実とは何か。

現実とは、五感的世界である。即ち、五感を通して得られた情報を基に構築された世界のことだ。

これは、大抵の者に当てはまる定義であろう。五感から得られた情報をそのままの形で現実として受容する。

しかし、ダリはその例外であったと言わざるを得ないだろう。

何故なら、ダリは本来彼が向き合わなければならなかった現実を、パンドラの箱・・・・・・の中に封印していたからである。彼にとっての現実は、より複雑で耐えがたきものだった。

彼の現実は、五感的世界のように受動的な存在ではなかった。それは、能動的にダリ自身に訴えかけてきたのである。

ダリはそのような苦しみから幾度となく逃れようと努力をしたはずだ。だが、それにしては彼の現実はあまりにも強力だった。

それは、単に外部から彼の精神の根幹を揺さぶるのではない。何故なら、その現実自体が、彼を彼たらしめる精神の根幹の一部に組み込まれていたからである。

その現実が、彼を作ったからだ。父親から見せられたグロテスクな性器の写真が、死骸に蠢く無数の脚の多い奇妙な生物が、自分と同じ顔をしているであろう髑髏となった兄が、彼を作ったからだ。

だが、ダリは成長する中で、耐えがたきその現実を一つの小さな箱に閉じ込める術を身に付けていったに違いない。

たとえ完全に忘れ去ることは出来なくとも、日常における大部分においてはそれに頭を支配されることなく生きる術を身に付けていったのだろう。

しかし、彼はその現実をパンドラの箱の中に封印し続けることはできなかったのだ。その箱は無意識の内に開かれ、その中の現実はひっそりと姿を現した。絵画という鏡を通じて。

パンドラの箱に入っていたものは、限りなく抽象的なもので、それは最早ものではなく一種の概念のようなものだった。

だから、ダリは訳も分からず苦しむことはあっても、その苦しみの発生源が、どれ程不愉快で、奇妙で、耐えがたい姿形をしていたのかを具体的に想像することは難しかった筈だ。

しかし、それはある時に明確な姿形を持ってダリの五感的世界に現れた。

《ダリは、見たままの世界を描いた過ぎないのかもしれない

ダリは、超現実主義の絵画を描く際に、偏執病患者パラノイアのように世界を解釈しようとした。夢に落ちる際の夢と現実が溶け合う瞬間を描こうとした。

つまり、彼は意図的にあのような奇妙な絵画を描いていたのであるが、それでは彼は一体何を見てあのような絵画を描くことができたのか。

彼は、どこからあのアイデアを得ることができたのか。恐らく、彼によればそれは才能という他ないだろう。

しかし、だとしても彼の描く世界はあまりにも精緻・・ではないだろうか彼の描く世界は、まるでダリ自身が実際にその目で観察して描いたように感じられるのだ。言うなれば、それはスケッチのようだ。

このことが、ダリと他の超現実主義者たちを明確に区別する。即ち、ダリの世界は非常に精緻であり、他の超現実主義者たちの世界はそうではないということだ。

例えば、ルネ・マグリットの描く世界からは、現実感が感じられない。むしろそれは、何か特定のものを示すメタファーのようであり、象徴的な暗号のように感じられる。

マグリットの絵画を見ると、我々はいとも簡単に、その世界がマグリット自身の想像の産物に過ぎないことを実感することができる。

また、アンドレ・ブルトンの世界は、童話のようである。彼の絵画からは、子供を楽しませるように意図的に奇怪なものを出鱈目に付け足していったような煩雑さが感じられる。

まるで、ブルトンが道化師で、我々がその見物人であるかのようだ。

しかし、ダリだけは違った。ダリの描く世界には、まるで彼が何らかの方法でその光景を実際に観察して、それをそのまま何の遜色もなく模写したかのような精緻さがある。

それは何故か。

ダリは実際にダリ自身の中にその世界の一部を持っていたのだ。ダリが観念上の鎖で何重にも封じ込めていた、観念上のパンドラの箱の中に。

ダリは実はそのことに気が付いていなかった。彼は、自分の描く世界が、実は自分のパンドラの箱の中に封印していたはずの現実の産物であることを知らなかった。

パンドラの箱の封印が解かれたきっかけは、些細なことだったのだろう。一見堅固なその箱を開くことは、実のところはそう難しいものではない。

ダリは、ある時、人間の内面世界を表現してみようと決心した。そして彼は、偏執病患者のように絵を描いてみた。

意外にも、それは容易いものだった。何故なら、自分の理性で特に何も考えなくとも、見る見るうちにその絵が完成していくからだ。

今まで誰も見たことのないような世界が、自分の手によって創造されていく。彼は、天才だったのだ。あるいは、天才のふり・・をすることに非常に長けていたのだ。

ダリは勘違いをしていた。それはダリ自身の才能などといった不明瞭な類のものではない。何故ならダリは、あくまでも彼自身の現実を描いただけ・・・・・・・・・・・・なのだから。

それも意図的にではなく、無意識的に。彼の、内面世界を描くという試み自体は彼自身の意図だったが、結果的に生み出された彼の現実は、無意識の産物だった。

無意識であり、それは必然だった。ダリが人間の内面の世界を描こうと試みたということは、同時に彼が先ずは自分自身の内面を参考にせざるを得なかったことを意味する。

《最大の超現実主義者シュルレアリストであり、究極の現実主義者リアリスト

我々は、未だに現実を明確に定義づけることができていない。それ故、現実主義・・・・が一体何を描くことを信念に置いた芸術傾向なのかということについては、本来であれば個人の判断に委ねられるはずだ。

だが、このような極めて抽象的である現実という概念においても、一つだけ確かなことがある。それは、現実は、その者が目を背けたいと感じていることがある時にこそ、最も明瞭な形を取って現れるということだ。

例えば、ある者が意図的にある事象に触れることを避けているとき、別の者はその者にこういうだろう。“現実・・を見ろ” “現実・・を受け入れるんだ”と。

最愛の者を亡くしたとき、取り返しのつかない過ちを犯してしまったとき、激しく嫌悪する何かが身近に存在していたとき。

目を背けることを強く願うその事象は、人によって千差万別である。

しかしこのような状態にあるときは、すべからく全員にとって、その目を背けたい事象こそが、この世界で最も現実と呼ぶに相応しい事象なのである。

それ故、現実とは常に残酷なものとなる。

ダリにとっても、彼が目を背けていた現実は非常に残酷なものであった。

しかし、遂にダリにその現実に向き合うときが訪れた。彼が超現実を描こうと決心し、実際に筆を取った瞬間のことだった。

彼は先ず、偏執病患者のように妄想を描いてみることにした。そして実際に、彼はそれを描くことに成功したのだが、それは妄想などではなかった。

彼は、現実と無意識が混ざり合ったような世界を描こうとした。勿論、ここでいう現実とは、ダリが信じる現実(つまり五感的世界)であり、無意識とは偏執病患者のような妄想や夢などの内面世界である。

だが、実際に彼が描いたのはそのようなものではなかった。

彼はただ、彼にとっての真の現実と五感的世界が混ざり合った世界を描いただけなのだから。

ダリは、何故あれ程までに精緻な悪夢を描くことができたのか。

それは、彼自身が向き合う必要があった真の現実が、女性器が、蟻が、亡き兄が、精緻な悪夢そのものであったからだ。

彼の現実から、その非常に具体的な怨念・・だけが抽出され、五感的世界と融合したのだ。

そして出来上がった世界は、この世のものと思える程に精緻でありながらも、同時にこの世のものとは到底思えない程の混沌であり、悪夢であり、心的外傷トラウマであり、絶望であり、地獄だった。

奇しくも、ダリは耐え難い現実から逃げるために絵画の世界へと走ったのかもしれないが、その先に待っていたのはやはりその現実だった。

しかし、それでも彼はある一つのことにおいては大きな成功を収めたといえるだろう。

ダリの創り出した超現実とは、人間の内面世界を開拓するものであった。そして、彼はその開拓に必要以上に成功したのだ。

その開拓は、夢や妄想といった表層的な内面世界に留まらず、開かずの扉の奥に閉じ込めていた筈の、真の現実という内面の極地・・・・・にまで到達してしまったのだから。

引用:Salvador Dalí. The Persistence of Memory. 1931 © 2025 The Museum of Modern Art URL: https://www.moma.org/

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