20世紀アメリカを代表する芸術家であり、ポップアートの先駆け的存在であるアンディ・ウォーホル。彼の代表作の一つである「キャンベルのスープ缶」(1962年)はなぜこれほどまでに有名なのか。
大衆社会で大きな知名度を獲得した背景に加え、《レディメイド》との関係性について深掘りすることで見えてくるスープ缶の本当の革新性とは何か。解説していこう。
アンディ・ウォーホル
アンディ・ウォーホルは、20世紀のアメリカを代表する芸術家である。
ウォーホルは、1928年にアメリカのペンシルバニア州ピッツバーグで誕生した。
高校卒業後にカーネギー工科大学に進学したウォーホルは、大学卒業後にデザイナーとしてのキャリアをスタートさせた。
「VOGUE」や「ハーパース・バザー」といった有名雑誌の広告などを手掛けたウォーホルは、デザイナーとして大きな成功を収めることになる。
しかし、そんなウォーホルに転機が訪れたのは1960年代の初頭である。当時のアメリカでは、かの有名なアメリカ国旗の作品で知られるジャスパー・ジョーンズらがポップアートという新しい芸術を推し進めている最中であった。

(Photo by Jack Mitchell/Getty Images)
ポップアートという広大な世界に魅了されたウォーホルは、ついにこの世界に足を踏み入れることになった。以後、彼は実に様々な作品を制作することになる。
ウォーホルの作風で最も印象的な点は、シルクスクリーンという技法を用いていることだろう。
シルクスクリーンとは、印刷技術の一種である。どのような印刷技術なのかというと、インクを通したい部分にのみ穴を空けた版の上からインクを押し出すことで、版の下にある素材に絵柄を写し出すというものである。
ウォーホルは、このシルクスクリーンという技術を用いることで、数々のマリリンモンローの肖像や「キャンベルのスープ缶」(1962年)といった代表作を生み出したのだ。
ポップアートについて
ウォーホルは、ポップアートを代表する芸術家である。ここで、ポップアートについてもう少し詳しく解説しておこう。
ポップアートとは、一言で言い表すならば“大衆文化のアート”である。
分かりやすくすると、大衆文化に根付いたテーマを基に制作されるアートだ。
大衆文化に根付いたテーマとして挙げられるものの代表格は、いわゆる「大量生産大量消費」である。
モノの大量生産システムは、私たちにより安価かつ容易に商品を購入することを可能とした一方で、廃棄物の増加に伴う、廃棄物焼却による二酸化炭素排出量の増加や、資源枯渇などの様々な問題を引き起こすきっかけとなった。
ポップアーティストたちは、そのような大衆文化に根付いた問題に対して異を唱えるべく、作品を制作していたのである。

そしてこのことは、ウォーホルも例外ではない。「キャンベルのスープ缶」(1962年)や「マリリン二連画」(1962年)では、同じ絵柄のスープ缶とマリリンモンローの肖像が繰り返し用いられている。
このことは、画一化された商品が数えきれないほど生産されるシステムを象徴するものであり、それと同時に大量生産システムに対しての批判の意思を表明するものでもあるのだ。
大量生産大量消費というのはポップアートが取り扱ったテーマのごく一部に過ぎず、その他にも政治や戦争、メディア社会や日用品など幅広い。
とにかく、ポップアートとはこのような大衆文化を舞台とするアートの潮流なのである。
「キャンベルのスープ缶」はなぜ有名なのか?
それでは本題に入ろう。「キャンベルのスープ缶」は一体なぜここまで有名なのだろうか。
現代アートについての知見がまったくない人にまでこの作品のイメージが普及している点を考慮するならば、やはり《イメージの明確性》の寄与する影響は大きい。
馴染みのあるスープ缶が、まるでアパートの部屋のように規則的に並べられている。鑑賞者にとって、これほど視覚的にわかりやすい絵画はないだろう。

また、やはり重要なのはスープ缶の鮮明な赤色である。インパクトの大きい赤色が連続して描かれていることで、鑑賞者の脳裏には断続的な強い印象が残る。
さらに、《新しさ》という面においてもこの作品は強い。なぜスープ缶なのか。今まで誰一人としてスープ缶を絵画の題材にしようと考えたことはなかっただろう。
以上のように、「キャンベルのスープ缶」は主に《イメージの明確性》と《新しさ》という二つの側面において、一般社会で誰しも“一度は見たことのある”有名な絵画となった。
【考察1】レディメイドと絵画のミクスチャー
さて、この作品を語る上で避けては通れないのがレディメイドである。
レディメイドとは、既製品をそのままアート作品として提示する手法を指す。有名な作品には、男性用便器に”R.Mutt”という署名がされただけの、マルセル・デュシャンの「泉」(1917年)がある。
レディメイドの目的は、「アートとは芸術家が独創性を活かして制作するものである」という既成概念を壊し、全く新しいアートの形を提示することだ。

デュシャンの「泉」からも伝わるように、レディメイドの登場は、人々にアートにおける従来の常識を疑わせ、彼らの頭の中に「アートとはなにか?」という問いを打ち立てることに成功した。
スープ缶に戻ろう。
「キャンベルのスープ缶」では、既製品であるスープ缶がそっくりそのまま描かれていることがわかる。
それでは、この作品はレディメイドであるといえるだろうか?
「キャンバスに描かれた平面作品である時点で、スープ缶をそのまま用いていないのだからレディメイドではない!」妥当な意見だ。
しかし、である。この作品で描かれているのは“既製品”であるスープ缶にほかならず、ウォーホルの独創性は反映されていない。このことは、「アートから芸術家の独創性を排除する」というレディメイドの本質に迎合している。
つまり、この作品が“平面である”という点おいては反レディメイド的であるものの、既製品をそのまま作品に用いている(正確には題材にしている)という点においては、レディメイド的である。
この点から、「キャンベルのスープ缶」は、レディメイドを踏襲しつつも絵画作品としての意味を持つ、いわば《レディメイドと絵画のミクスチャー》として、アートの新たな可能性を切り拓いた革新的な作品であるといえるのだ。
【考察2】レディメイドのポップアート化
では、「キャンベルのスープ缶」が《レディメイドと絵画のミクスチャー》作品であるとするのなら、このことが一体どのような意味を持つのだろうか。
ここで、再びデュシャンの「泉」に目を向けてほしい。
この作品を見て、果たして大衆は心から“面白い”と感じるだろうか。彼らの間で瞬く間に人気を博すだろうか。否だ。
レディメイドは確かに新しいアートの地平を切り開いた革新的な手法であるといえるが、“大衆文化のアート”としてのポップアートにはなり得ないだろう。
では、「キャンベルのスープ缶」はどうだろうか。
「泉」とは打って変わって、キャッチ-な絵柄で大衆にも人気である。まさにポップアートの代表格であるといえる。
つまり、《レディメイドと絵画のミクスチャー》である「キャンベルのスープ缶」は、レディメイドにポップアートとしての価値をもたらした革新性を持っているのである。
もし、従来のレディメイドのように、ただ実物の大量のスープ缶が並べられていただけでは、これほどまでに大衆の間で有名になることはなかっただろう。
実物のスープ缶をレディメイド作品として発表するのではなく、あえてそれをキャンバスに描くことでそれをポップアートに昇華させたという点は、「キャンベルのスープ缶」が持つ唯一の“独自性”であるといえるのだ。
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